効率追求に疑問を感じたら、一旦「モモ」を読むべきかもしれない。
50年前の子供向け小説が、現代社会を的確に予測している。少し信じがたい話かもしれませんが、「モモ」では、人々がひたすら生産性を意識した結果、常に時間に追われ、総じて不幸せになっていく様が描かれています。
現代も少し状況が似ている気がしませんか? 生産性や効率、時間的なコスパを高めることが賞賛されておりますが、何だかいつも、仕事やタスクに追われているような気がします。そして、「効率的」に行動した結果、空いた時間さえも、将来に備える自己投資や仕事に再び充てている。そんな生き方が当たり前になった結果、社会から総じて余裕が消えてしまっている。
「モモ」を読み返してみたところ、子供の頃には気づかなかった「社会への警告」的な要素があることに気付きました。そして、「時間の捉え方」を考え直した方が幸せに生きれそうだな、と感じました。本日はそんな、「モモ」を通して現代社会をより良く生きる方法を模索してみます。
目次
モモとは?
「モモ」とは、1973年に出版されたドイツ語の児童向け小説です。イタリアにある架空の地域が舞台となっております。作者のミヒャエル・エンデは、「はてしない物語」を書いた方としても有名です。
ネタバレを含んでしまいますが、「モモ」を読んだことが無い方向けに、あらすじを簡単にご紹介します。
主人公のモモには家族がおらず、住居もありません。そのため、一人で遺跡(円形の劇場跡)に住んでおります。モモの特技は、人の話を心から聞くことです。モモに話を聞いてもらった人々は、何だかすっきりとして、心のモヤモヤが取れるのでした。そのため、モモは近隣の人々から愛されておりました。
そんな中、遺跡の近くの街に異変が起き始めます。今まで、人々との交流を楽しんでいたり、仕事の質に自信を持っていた人々が、「効率」や「生産性」を闇雲に追いかけ始めるのです。その結果、街の人々は常にイライラしており、何かに追われているようでした。つまり、心が貧しくなってしまっていたのです。
心の貧しさを作り出したのは、「時間泥棒」と呼ばれる窃盗集団でした。彼らは、「効率」や「生産性」のみが重要であると説き、街の人々を洗脳してしまっていたのです(詳細は省きますが、時間泥棒のエネルギー源は、人々の時間です。人々が節約した時間を奪うことで、生きている存在なのです。)
やがて遺跡の周りも、同じような状況となりました。これまで心温かく生活していた人々はいなくなってしまいました。危機感を覚えたモモは、意を決して時間泥棒を退治するためのミッションに出かけます。そして無事成功した結果、人々の心には温かさが戻りました。
以上がざっくりとして「モモ」のあらすじです。「効率」や「生産性」が絶対視される下りや、それらに取り憑かれたように追われている人々の姿は、50年前に書かれた小説とは思えないほど、現代社会を的確に表していないでしょうか?
現代人は時間をどう使っているのか
「モモ」で描かれている状況は、現代人の時間の使い方そのものに見えます。時間をモノと同等に扱っており、自分の心とは切り離してしまっているのです。
全世界的に、「成果」を上げるためのプレッシャーが年々強くなっているのではないでしょうか。職場や学校でのストレス増加(労働時間自体は減っているという指摘もあります)を始め、多くの世代が圧迫感を強く感じているようです。現にアメリカでは、働くことを拒否するアンチワーク社会ムーブメントが一部で起こっています。社会全体が「何か」に追われている。そんな状況を私たちは生きています。そのためには、効率よく時間を使い、無駄なことをせず、合理的に考えることが正しいとされています。これは「モモ」の中で、人々の不幸の元凶となった考え方に、ものすごく近いのではないでしょうか。
作品内で、人々は時間泥棒にそそのかされ、時間を自分の命とは別物として捉え、お金と同じように節約したり、自分のモノとして見るようになります。しかし、時間をどんなに節約しても、人々の心は一向に豊かになりませんでした。もちろん物質的には豊かになっていきましたが、「時間の節約」に追われた人々は、家族や友人、そして自分自身とゆっくり向き合う時間を無くしてしまっていたのです。
そんな状況を打破するためのヒントを、「モモ」は提示してくれます。それは、「時間の捉え方」を変えることです。
モモが描く時間とは?
「モモ」の主要テーマの一つが、私たちの「時間」の捉え方です。作者のエンデは、私たちに「時間の捉え方」を変えることを提案しているのではないでしょうか。それは、時間が視覚的に描写されているシーンから感じ取ることができます。
作品内で、モモは時間の正体に遭遇します。時間の正体は、「次々と咲いては枯れる、美しい花々」として描かれています。このイメージに触発されて、モモは一種の悟りを得ます。時間の存在の大きさ、美しさ、儚さ、そして躍動感に触れたからです。
この場面で、作者のエンデは何を表現したかったのでしょうか。
個人的な解釈ですが、「時間はモノではなく、体験であり、心そのものだ」というメッセージが込められていたと思います。常に連続的に、力強く咲いている時間。同時に、すぐに無くなってしまう儚さ。そうイメージすると、私たちの一瞬一瞬の体験が、すごく尊いものに思えます。
時間をモノとして捉えてしまうと、私たちは心の体験を、無視しがちになります。効率・生産性などの数値化された成果だけを追い求め、その体験の中身には、目もくれません。そしていつしか、物語内の人々と同様に忙しさに追われ、何だか心が満たされない気分になるのではないでしょうか。
なぜそんなことが起きるのでしょうか。それは、「時間」 = 「生きることそのもの」という感覚を忘れてしまっているからかもしれません。物語の中で人々の心が貧しくなっていったように、どんなに効率や生産性を高めても、心の充足感や意味づけを置き去りにしてしまうと、後に残るのは虚無感だけです。言い方を換えると、「空っぽの時間」を過ごしてしまうと、「生きた心地」がしなくなってしまうのです。それは、「時間を過ごす」 = 「生きること」にほかならないからです。
人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。
引用元:モモ 名言と作品紹介
まとめ
本日は、児童小説の「モモ」を読むことで、現代社会をよりよく生きるためのヒントが得られるかもしれない、というお話でした。仕事や学校では、効率や生産性が求められている側面は確かにあります。しかし、それらの概念を生活の根幹に据えてしまうと、日々の生活からは活気や生命力が薄れてしまい、私たちの心は渇いてしまうのではないでしょうか。
再び力強く生きるために、一旦「モモ」を読んでみるのはいかがでしょうか。
ちなみに私は、疲れてしまった時は読書と合わせて、好きなものを食べるようにしています。その中でも、精神力の回復に効果が高かったのは「バクテー」という料理です。詳しくは、シンガポールの最強ソウルフード!バクテーの魅力に書いておりますので、ぜひ読んでみてください!